港崎町遊廓の施設が進捗して、愈々其開業の段取りとなつたので、外国奉行は江戸吉原に掲示してある高札面の振合に倣つて、其高札掲出に関する件を幕府に伺出(註)た結果、廓の開業に先立つて之を掲出せしめたので港崎町遊女廓の仮宅時代から一転して、其本廓に引移つた以後は勿論、関外吉原町遊廓時代をも通じて、常に大門口の脇には、厳然と其姿を示して居たものであつた。然るに明治四年十一月(の原町廓の焼失の月)に至り、従来掲出してあつた諸高札を一般に撤去するの令が出たので、横浜廓の大門からも当然此姿相を消して終つた。此高札面の文は、遊女の隠匿及び其逃亡を取締り、且つ遊廓以外の密売淫を禁じたもので、横浜での掲出の本意は、当然生じ得べき外国人相手の密売淫を取締る事に重きを置いたものであつた。当時、外国人の妾となるには、一旦遊女の籍に其身を置いて、然る後でなければ囲妾となれない制規でもあつたので、幕府の時も明治政府となつてからも、外人への密売淫の取締りは頗る厳重なものであつた。(第六章第二・三節参照。)