初め横浜村名主太田源左衛門の吉田新田を開発するや、太田町六丁目(旧、境町一丁目、現在、日本大通。)に、讃岐の金毘羅権現を勧請したことがあつた。夫れでヒントを得たのであるが、此港崎町遊廓の創設に当つても、また岩亀楼主佐藤佐吉は、同じく讃岐の象頭山から金毘羅大権現を勧請して祭祀した。其最初のものは頗る粗造な仮殿の建立であつたが、後に遊女の揚代金一人に就いて文久銭一箇(当時四文に相当)を徴収蓄積する定めとなし、其頃の廓内の好景気を利用して、忽ちの裡に二間四方の朱塗の御本殿が出来上つたので、翌年十月に大祭を執行し・爾来毎年、其祭事を怠らなかつたが、慶応二年十月二十日の大火災に社殿が類焼したので、翌年、移転先の吉原遊廓に更に新殿を造立して、之に遷座し、また明治五年、遊廓が再び高島町(七丁目海側)に移転するに際しても、倶に遷座し、同年に金刀比羅神社と改称して、明治十五年、高島町遊廓の移転期限来ると共に、現在の真金町に遷座したものである。古来、此神は海上の安穏、航路の守護、土地開発の神として崇められたのであるから、貿易場の横浜港としては、寔に縁起神として崇むるに適当であつた。