江戸名所図会に「正一位鷲大明神社、花亦村にあり。此地の産土神とす。祭神詳ならず。本地は釈迦如来にして、鷲に乗ずる体相なり。」と載せ、又「鷲大明神祭、毎歳十一月酉の日に修行す。世に酉のまちと云へり。此日近郷の農民、家鶏を献ず。祭終るの後、悉く浅草寺観音の堂前に放つを旧例とす。」と記してある。東都歳事記には、「葛西花又村鷲大明神社、世俗大とりと云ふ。参詣のもの鶏を納む。祭り終りて浅草寺観音の堂前に放つ。境内にて竹把、栗餅、芋魁を商ふ。云々。」又、「下谷田圃鷲大明神社近来、参詣群集する事夥し。当社の賑へる事は、今、天保壬辰より凡五十年以前よりの事とぞ。栗餅、芋がしらを商ふ事、葛西に同じ。熊手はわきて大なるを商ふ。云々。」とあつて、何れも此日の賑やかさを想はせるもので、殊に下谷田圃の鷲大明神の如きは、不夜城の吉原を控へて、一際の大繁昌であつた。鶏を納むる行事は、維新前に既に打絶えたが、熊手・餅・芋がしら等の縁起物を商ふ事は、今に至るまで伝統され、各地の遊里にも昔しながらの其俤を残存して居る。
大鷲神社の祭神は本来土師臣の祖神天穂日命を祀つたものであるとの説は従ふ可きである。然るを何時の頃からか、ハジをワシと訓みひがめ、夫れから字義に拘泥して鷲即ち大鳥を祀つたものとし、一転して鳥を、干支の酉字に当て、酉日に祭礼を行ふに至つたのである。故に世俗の迷信する所では、或は鶏の産卵の状況から、繁栄増殖の象徴に附会し、財貨の福徳神として崇敬するもあれば、或は大鷲の掴み取るの縁喜に解するものがおるので、次第に大繁昌を招いたものである。祭礼当日熊手を売るのも、何れは慾張りの迷信者を目当てに、誰かの考案に成つたものと思はれる。明治八年十一月九日発行の横治毎日新聞に、高島町時代の酉の祭りの状況を左の如く記してある。
高島町十ヶ町の間は、人の山、鷲大明神の境内は爪も立たぬほどの大込合、旧弊家の半髪野郎は、是れ見よがしに、素的な熊手を肩に担ぎ、開化流の散髪書生はひけらかし半分に、別品の芸妓に手を引かれ、貸座敷の格子の前には.和漢西洋おしなべて、冷却の素見客がふかし煙草の足休め、天麩羅の屋台の陰には、小竹、丁稚の撰り嫌ひなく、立喰の下卑逹がお膳箸の手を止めず、熊手を売る商人は、鷲掴みの銭をかき抓はんとし、古着を鬻ぐ山師は、虱だらけの衣をおつ付けんと、切揚屋の婆アさん油で口がすべり、植本屋の爺三、菊で耳を聾にする。云々。