岩亀楼主佐藤佐吉は、横浜遊廓建設に就いて、其才智を揮ひ、且つ多大の資金を投じ、今日をあらしめた功労者である。佐吉は品川宿の飯売旅籠屋岩槻屋(岩亀の名は岩槻の音を取つたものである)の主人であつて、港崎町廓創設の当初から廓名主となり、吉原町廓時代以後は、其廃業まで前後二十五年間、総代等の要職に居たものである。(明治一六年一月死亡。)而して佐吉経営の岩亀楼は各廓時代を通じて其建築の宏壮と善美とは廓内第一楼として終始し、特に、港崎廓時代は、純日本様式に西洋様式を加味し、又高島町時代に於ては、文明開化の匂ひ高い様式を取入れたものであつた。実に佐吉と岩亀楼との名声は、現在種々の方面に残存して居る。既に本書登載の記録や絵図等に拠つて見ても察する事が出来るのである。