楼内には踊り舞台を設備し、娘手踊り(禿・舞子)を内外客に見せて居た当時、一と切(一幕)と称して、一舞台の見物料は一両二分で、一目五切の舞台であつた。舞子は小亀・小鶴・小花・小蝶・小房・小浦・小浪・小桜の八名、唄は八重太夫・兼太夫・利喜太夫の三名、三味線は定吉・よし路・竹治・梅吉・亀吉の五名、下方は望月太郎吉・佳田吉十郎・佳田吉三郎・佳田長次郎・佳田彦四郎の五名であつた。
因みに、元治二年初春改版の「みよさき細見」には、手踊り舞子は小浦・小房・小蝶・小常・小鶴・小兼・小亀・小花・小絲・小松の十人、浄瑠璃は兼太夫、富本は津賀鉄、常磐津は民次、長唄は常次、三味線は信次、噺子は長五郎・百平・定吉・次郎兵衛、床山は鶴吉、衣裳方は倉吉・高次、振附は、坂東小家江となって居る。即ち踊り子に小浪と小桜が抜けて、新たに小常、小兼、小絲、小松が加はり、其他唄・三味線・下方が大方替つて居るのである。
此頃岩亀楼評判の出し物「蝶小蝶花港崎」は、石橋を小亀、蝶舞は小花・小蝶・小房で、これが引きぬきになつて「吉野山初音道行」に替り、静御前を小房、忠信を小蝶。捕手を小花が踊つた。此他の踊りは、文久二年の番附に拠ると、大江山・小姥・六歌仙・二人奴・越後獅子・布さらし・信田森・先代萩・道行旅路花聟・今様須磨写絵・紅葉狩等、盛り沢山の狂言や所作事を演じて居る。此踊りは普通客にも観覧させたと同時に、楼内結構の豪華振りをも案内して見せて居た。殊に外国人は舞子の踊りには、奇異の眼を?(目+争)つて喜んだものであつた。石橋の蝶舞は、長唄出はやしの大がかりなもので、歌詞(註)は客の挨拶に出した手ぬぐひ包紙にも記され、七十三童あし園作のものである。かくて岩亀楼は七年の間、港崎町に其華麗な姿を浮べて、豪奢を誇つたのであつたが、慶応二年十月二十日、惜しくも類焼の厄に遭つた。