港崎廓創設の折に、神風楼は伊勢楼粂蔵であつたが、性来気概に富み、志士と交はり、時流を洞見する新進の人物であつた。元治元年、更に神風楼を弟綱吉名義で開業したのであるが、此楼名は伊勢の神風から取つた彼れが心魂一端の顕れであつた。港崎町焼失後は吉原町に移り、伊勢楼を姪山口とめに譲り、粂蔵は神風楼を経営した。翌明治元年になつて、従来岩亀楼のみの独占であつた異人揚屋を率先して開放し、自由営業としたのは彼れであつた。これは啻に岩亀楼に対する独占的行為に反感を持つた単なる理由ではなく、外国人の富を吸収するのは国富を豊かにする所以で、実に自他の取るべき営業策と思慮した、其抱懐を具体化した結果であつたと云はれて居る。かくて高島町に移つた神風楼は、同町二丁目富士見橋際海岸側に、岩亀楼と相対して城廓式三層楼の和洋折衷館を両翼にした大建築の工を起し、竣成後は右方を日本人、左方を外国人専門に別ち、異国振り豊かな器材什具を設備し、稼業は益々栄えるのみであつた。