跡家の処分

神奈川の跡家は、其後数年問殆ど放置の儘であつたが、明治四十一年、東京吉原大阪屋の経営で、同年十一月三日、神風閣と称する料理、旅館及び席貸兼業のものとなした。其後四十三年の秋になつて、一部は横浜ホテルとなり、一部横浜脳神院となり、共に須藤礦作の経営であつたが、入院中の外人狂者の為めに火を過まられて、明治四十四年三月五日焼失した。