真金町の店は、此所に移つた頃から、楼後の庭内で培養した菊花は、年々歳々繚爛の錦を飾つた。季節には之を一般に開放して縦覧させたので、神風楼の菊花壇の評判は、内外人に喧伝されたのであつた。殊に明治三十三年、神奈川の店廃業以後は、外国人を専門とする様になつて、楼名と菊花とは一層外国人間に喧しく、漫遊者は先づ第一著に神風楼を訪づれる事を忘れなかつたと云はれて居た。かくて廓中の第一楼岩亀楼廃業の後、半期間を神奈川に、真金町に、其全盛を見せて居たのであつたが、震災後は再興するに至らなかつた。