国粋的楼名

横浜開港後は、尊王攘夷の国論が殊に喧しく、当時港崎遊廓は憂国志士の策源地の観があり、遊客にも国粋派が非常に多かつたので、頗る恐慌勝ちの立場に置かれても居た関係から、遊女屋渡世の者は自然と彼等攘夷派の意図に喰ひ入つた迎合的な屋号を附する様な傾向であつた。即ち万延元年板行の「港崎細見」には、伊勢楼・五十鈴・新五十鈴の三楼があり、皆神風の吹く伊勢の国から取つたものてあつて、其一端とも見られ、更に元治二年春板行の「みよさき細見記」に拠れば、国論沸騰・上下騒然・横浜居留地焼払ひなどの噂も喧しくなつた折柄なので、果して神風楼は生れ、二見楼が出現し、是等は啻に緑起名とのみに過し去るには忍び難いものがある。其他には富士見楼・開勢楼・金石楼・出生楼などとあるのも、皆何れも其語呂に開運出世の晴ればれしい気持や、さては心幹鉄石の如き蓋世抜山に腕を扼する志士などには当然喜ばれる名称であつたに相違なく、実に之に依つても当時の世相は窺はれるものであつた。