明治の聖代に入つてからは、文明開化の潮先に争ひ浸る様になり、四海兄弟の和親振りを実現した結果は、明治二年三月板行の「横浜吉原細見記」の語るところとなつて居るが、即ち大小の妓楼を初め、局見世に至る迄の楼名と遊女名には、全部傍訓にローマ字を用ゐて、外人との取引に便にしたものであり、第七章第二節一〇参照。その当時の廓内遊女の数は、九百余人を数へ、最も高調期に加へて、而かも幕末維新を通過した平和への過波期でもあつたので、外人遊客の出入も頻繁であつたと同時に、らしやめん女郎も可なり需要供給が盛に行はれた時代である。従つて是れまでの異人揚屋は岩亀楼一楼のみの専売であつたものが、官憲黙許の裡に、自然と廓内の妓楼が其設備の如何に拘らず、各自に外人客を登楼させる事となつた。其例証としては、明治五年二月十五日発行の横浜毎日新聞が、「過日吉原港町富士見楼吉次郎方(中店格)へ、英国フロサ船乗組の水夫タアーイが登楼し、抱へ女小春を相手として遊興中、洋酒に混じて催快剤を用ゐた為め、小春は気絶した云々」(桔梗。)との記事を登載し、此頃から既に各楼に於ても盛に外人客を遊興させて居つたものと想像されると同時に、此種の事件に類するものは相当惹起した事とは推察されるものであつて、此ローマ字入り細見記出版の効果は、遊女の取引の上に偉大なる価値を現じ、洵に時代的便利な所産に係る珍奇唯一の細見記として、今猶、雄弁にも其頃の吉原町遊廓の全貌を彷彿せしむるものであつた。
吉原町で外国人を客とする様になつたのは、明治元年中に、神風楼主の山口粂蔵が、外人揚屋の岩亀楼独占である事に不服を齎らし、事後承諾で外人を客とした事に起囚すると言はれる。即ち神風楼が従来の岩亀楼の専有権を破つて、外人を登楼させたので、其頃岩亀楼から訴訟を提起した結果、神奈川裁判所は、爾後各楼に於ても外国人を扱ふ事の差支へ無き趣を判決したのに端を発したと伝へられて居るが、確証とすべき資料は無い。