明治三十二年九月 平林九兵衛編 喜遊の伝
横浜開港のはじめ、北品川に全盛を極めし岩槻屋佐吉と云食売旅籠屋あり。営業繁昌の結果、多く蓄財為し、幕府より其身一代苗字を許され、佐藤佐吉と称す。横浜開港の際、沼地を開拓して遊廓を開く。(横浜の遊廓は此人を以て元祖となす。)横浜の妓楼を岩亀楼と呼ぶ。此楼の許にていと憫然なる譚あり。其故は、江戸深川皆川町に太田正庵といふ町医師あり。その身素より貧困朝暮の煙りも立兼、負債は積りて山をなし、心にもあらで、八歳になる一人の女児を新吉吉二丁目なる甲子屋と呼ぶ妓楼へ身売なし、僅の金に約定を整へたり。則嘉永六丑年正月なり。件の正庵夫婦は、翌年引続きて病死なし、孤独となり、以後甲子屋方を親とも主人とも思ひ養育され、主人も諸芸を仕込み、十五歳に及びし春、始めて遊女と為し、客に出せし時は其名を子の日と呼れしが、客貌至つて艶麗、沈魚落雁の風情あり。生れは江戸育ち、親は貧しけれども医師なれば、自然行儀も備り、殊に義気に富み、幼稚の瞬より此家に養はれたる恩義を忘れず、主人の為めを思ひ、賓客をも粗略の行状なく、全盛を極めしが、甲子屋の内証も漸々障る事ありて、遊女も手離す事となり、品川の岩槻屋に鞍替の談判とゝのひ、甲子屋主人は子の日に恁々と听かせしに、幼少より育られ親のごとく親しみたる主人に離るゝなれば悲しめども、時の然らしむる所と、竟に岩槻屋に住替して、品川の見世に来りぬ。(編者同郷の生まれなれば、岩槻屋は懇意なり。たまたま客に招かれて、同家の別荘などにて酒宴の節、此婦酌に出でたること度々なり。実に容貌は美麗、なれども、どこか憂ひの相ありと覚えたり。)横浜表追々盛隆に至り、娼妓の数を増ずことに成りたるに、岩亀楼(爾来品川岩槻屋の店を娘ゑゐの名前となし、岩亀楼は佐吉名前となる。)は品川の楼の娼妓幾分を横浜に移ず事とはなりぬ。佐藤佐吉は部屋に此婦女を招きて、横浜の方に移さむ事を促したり。此婦女は何分横浜の岩亀楼に同主人と雖も、みづから赴くを悲み厭ふて、辞むは他ならず、彼の地に至れば、夷人の客にも枕をかはさゞればならぬとの意より、此を恥ぢて応ぜざりしかば、すかしつなだめつ、辞を巧みて彼の地に至るとも、夷人の客を勤むるは必ずしも為ずまじと堅く約諾なして、いやいやながら楼浜の岩亀楼に至りぬ。かくて其名も喜遊と更め、横浜吉吉遊廓(此頃横浜の遊廓を最初吉原と呼ぶ)五町の街に在りて、名妓のきこへ高かりし、他に肩を並ぶる娼妓なく、雨の夜雪のあした客の絶間なきに至れり。文久戌年のことゝかや、横浜居留地に来れる米利堅人伊留宇須と云へる人、渠が容顔の美麗なるに惑溺して、岩亀楼に登楼なし、頻りに金貨を湯水のごとくまき散らし、喜遊を敵娼に出さんことを挑めり。主人も予ての約束はあれども、元来謀りたることなれば、金崇拝の主人は此事を喜遊に告げて、只管申し勧めたるも、固辞して肯ぜず。然れども此客を断りては、金箱を失ひ、米人には実事をあかさず、程よく款待し、病気に事寄せ何んのかのと言延し置きたり。伊留宇須情慾自から制しがたくやありけん、金貨を夜毎費ずこと数百金の多きに及び、今夜にも喜遊に媾ずれば、又数百金を抛つべしとて主人に逼る。主人もさるものなれば、喜遊の部屋に来り、歎息して言へる様、曩日には屡々勤めたる夷人の客なり。品川より来る時、御身に盟ひし辞はあれど、此横浜は夷人に悪まれては商売も出来兼、閉店ずるの外なく、彼の方へは御身の病気と偽り、日を延しのばしずれば、客は自然退屈をきたし、他の娼妓を揚ぞれる事やあらむかと、一時遁れに言ひまぎらしあるが、却て今は頻りに逼られ致方なし、渠は御身に恋慕して他を見るの意更になく、竟に憤怒して云ふ、夷国の者と見あなどり、此楼に数百の金貨を散ぜしめ、一回も喜遊に媾せざるの条如何にも奇怪至極なり。全く我等を誑惑して金貨を貪り掠むるなる奸諜か。よし如レ此事実ならば、日本役人に照会し、辛き目見せむ。されど渠を出だして、我が心をだに慰めたらむには、彌が上に数多の金を得させんと、はや如何とも言解くに由なし。今更主人の権を以て吩咐るにはあらず、我を助くると思ひて、一夜さにも席を同ふして呉れよと、訴ふるが如く啼くが如く口説きたり。されども喜遊は中々応ぜず、主人は猶も承諾せしめんと奸計を用ゐて、喜遊の平生睦まじき朋輩の娼妓あり。これをずかして云へるには、喜遊に勧めて夷人の客の席に侍らしめば、汝には若干の賞を与へんと。此娼妓は喜びて喜遊の部屋に至り、論しけるには、横浜は異人に非ざれば何事もなしがたし。此土地の素人にても渠等が嬖妾となり、名をとるよりも利を得る方に従ふの世の中、まして御身は異人を嫌ふの甚しけれども、異人とて禽獣ならずして、同じ天地に生を得たる人間にてあるを、よしや其身を任せたりとて、さばかり汚辱となるにもあらじ。御身生来の頑固を棄てゝ、枉げて主人の言に従はれよ。わらはも異人の客を媾ずる屡々なれども、日本の客よりも却て取扱ひよし。はやく承諾なし、主人の心をやずめたまへ。彼の伊留宇須は此家には福の神、搖銭樹であるものを、欲を知らざる者やあると、辞を盡して勤めければ、喜遊思ふには、主人には説論され、朋輩其他家内中のものには彼是やかましくいはれ、思ひ定めて主人の許に至り、しぶしぶ申ず様、夷人の客には出でまじと固く辞みし事ながら、御家の立行難しとあるを聞きて、否とも申し難ければ、仰せに従ひ侍らんと言ふ。主人はかくと聞き歓びて、さながら喜遊を拝まぬばかり礼を陳べつゝ、居間を立ちて更に米人の許へ至り、喜遊を出ずべき旨を答へしかば、伊留宇須の喜び一方ならず、其夜は早くより岩亀楼に来り、許多の歌妓等を聚め、時移るまで酒盃を飛ばし、安酣なれども、喜遊が其座に出で来らざりしを、伊留宇須は心もどかしく、屡々促がずにぞ、化粧と云まぎらし、猶予をなしつゝありけるが、余り遅きに訝りて、鴇母は喜遊が部屋に至りて、其動静を覗ふに、屏風を建廻し、寂然として声もなし。心得がたく屏風を押開けば、無惨や喜遊は懐剣にて自から咽を貫き、血に染まり仆れ居たるに驚き、声を立てければ、亭主をはじめ家内の者皆々馳付け、其混雑云はん方なし。傍に一通の遺言あり。亭主これを披き見るに、其文に云、
世に苦界に浮沈みずるもの幾千万人と限りも候はず。我が身も勤する習ひとて、父母の許し給はぬ仇人に肌ゆるずさへ口惜しけれど、唯々御主人の御恩を顧み、ふたつには身の薄命とあきらめ侍りしが、其基ははかなき黄金てふものゝ有るが故ならめ。此金は遊女の身を切る刃に候まゝ、其刃の苦界を離れ、彌陀の利剣に帰しまいらせ度、主人に辞して亡き双親に仕へ参らせ候得ば、黄金の光りをも何かせむ。おそろしく思ふうらみの夢覚よかしと、誠の道を急ぎ候まゝ、無念の歯がみを露はせじ。我死骸を今宵の客に見せ下され、かゝる卑しき浮れ女さへ、日の本の志は恁くぞと知らしめ給はるべく候。
露をだにいとふ倭の女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ
此喜遊の譚はいろいろの書に出でたれど、編者其頃岩亀楼の主人に直接に聞きたるまゝを記したり。