明治二十四孝絵抄

明治十五年四月 鈴木伊四郎編 松斎吟光画図

喜遊は江戸本町に住する正庵といへる町医師の娘にして、性孝心厚きものなりしが、幼なかりし時、父母ともに長く病に罹り、多くもあらぬ貯財なれば、忽ち盡き果て、今は其日も送りかねるばかりなるに、喜遊この時六七才なるが、甲斐〃しくも附木など市中に售り歩きて、聊の利を米にかへ、父母に粥となして進めなどし居たりしが、元より僅のことなれば、迚も薬の代を償ふに足るべくもなく、かくては父母の身の危く思ひければ、自ら分別して、身を新吉原なる娼閣甲子楼に投じて、身の代を以て父母の薬餌の代となせしが、其甲斐もなく父母共に失たりしかば、悲歓大かたならず。然るに喜遊十六の春を迎へければ、娼妓となりしが、故ありて金港なる岩亀楼に移りしに、米人其深く懸想せしが、喜遊外人に応ぜざる約あれば拒みたれども、楼主約を背きての進により、詮方なく承引して、直に室に入り、刃に伏て自害せり。今之を聞ば頗る頑固に似たれども、当時にありては誠に烈婦といひつべし、辞世の歌に、(歌詞前記。)