大橋訥庵の門人椋木京太郎の偽作であると言はれて居る。彼は訥庵の命に依り、京都・水戸の間を往復し、尊王攘夷に奔走し、安藤閣老を要撃したのも、彼れの計画であつた。文久年中、横浜にも往来して、港崎遊廓で遊興中、暗示を得て偽作したものと云ふ説。
椋木がかゝる暗示乃至動機を掴んだのは、支那広東を英仏軍が占領した時、(咸豊七年、我が安政四年)広東の美人娼婦李宝卿を士官某が意志に従はせ様としたので、之を怒つて毒を飲み、血を士官の顔面に吐いて憤死したと云ふ談を聞知し、之にヒントを得て、仮作したものと云はれて居る。