以上述べ来つた諸点だけでは、未だ以て喜遊に関する疑問を悉く解決するには足らぬ。然るに茲に一つ有力なるものは、岩亀楼過去帳の二十六日の条下に、喜遊の俗名を挙げて、其下に文久二年八月と認めてある事である。若し此帳が其時代の物であり、記入文字も亦、同時代のものであるなれば、最早疑もなく喜遊なる遊女も実在の人物で、岩亀楼に居たことの有力の証となる可きであるから、此帳の研究は、史料を取扱ふ者が全力を挙げて試みなければならぬ唯一の重要任務と云はねばならぬ。然るに不幸此過去帳研究の結果に就いて、甲は之を信拠す可き有力のものと是認し、乙は之を後世の記入であるから全然取る能はざるものと断じ、端なくも茲に二派の論者を生ずるに至つた。此の如くなつたのでは、編者が茲に折角提出した唯一史料をまた撤回せねばならぬに至つて、寔に遺憾至極である。併し吾人は未だ失望すべき時期で無いと思ふ。一面この過去帳に厳密なる研究を遂げ、他面喜遊の実伝を探り、以て小説的烈女を実在人物とし、我が開港裏面史の一頁を飾つて見たいものである。