「新撰横浜商名鑑」所載明治四年板
一、羽衣町芸者之部八十二人(四十一軒)
明治四年頃の吉原町廓外附近は、順次埋立に依つて開発され、明治二年八月、既に羽衣町の町名が附してあるので、此界隈には料理店の如きものが多数出現した。従つて芸妓屋も出来、繁昌を来たしたので、茲に「羽衣町芸者」として吉原町をも併せ含めてあるものと推察される。
当時に於ける吉原町界隈の繁栄は、左の記録を見ても明かなものがある。
明治二年正月、横浜吉原町外ニ居住シテ、芸妓ニ類似ノ業ヲナス者ヲ禁止ス。当時三味線師匠ト唱へ、男女多人数ヲ置キ、芸妓・幇間ニ類スルモノ各町二アリ。取締ニ関係アルガ故ニ、此禁令アリ。(横浜沿革誌)
右の様な状態であつたので、明治五年、高島町へ移転後も、旧吉原町附近は其開業に伴つて更に殷賑を加へ、後年の私娼窟を現出し、又関外に芸妓屋が出来る様になったのである。