関内芸妓と関外芸妓

関内と関外の芸妓

現在、関内芸妓及び関外芸妓と呼ばれて居るものは、共に明治初年頃からのものであつて、関内芸妓は、大田町以西が慶応二・三年に亙つて埋立を終へるに従つて、以後順次に街区の形を成して来た頃からと、又、関外芸妓は、慶応三年五月、吉原町が出現後に、大門外の埋地が出来上つた明治に入つた頃からの事と思はれる。爾米関内芸妓は、住吉町、常盤町、尾上町の附近を根城とし、関外芸妓は最初羽衣町附近を根拠としたが、明治五年に、吉原町高島町に移転後の跡地の梅ヶ枝町・松ヶ枝町・若竹町(現在、中区末広町三丁目、長者町六丁目付近。)の界隈に、其名の目出度い町々へ集団して、現在に至る迄も伝統的の地の利を占めて居る。此両地の芸妓は、明治・大正期を通じて、駸々乎して発展の盛況を見せて居たが、震災後は著しく減少を来たして、明治期に於ける約半数以下の現況を示して居る。即ち明治十四年末の調査に係る「横浜芸妓評判記」に拠れば、市中芸妓四十一名とあつて、此頃の関内、関外の両所を合せた数であるが、明治末年乃至大正初期には、各々三百人を数ふる全盛を現出したと云はれて居る。今、横浜花柳案内、(大正十年十二月刊)。横浜三業案内(昭和四年刊。)等に拠つて、震災前後の消長を示せば、左の如くである。

  (大正十年十二月調) (昭和四年九月調)
関内 百四十七人(六十五軒) 六十八人(三十五軒)
関外 二百二十一人(九十三軒) 八十九人(五十九軒)