開港の頃、神奈川宿の海沿ひ通りに竝んで居た飯売旅籠屋の数多い中に、玉川楼・小川屋、太田屋・下田屋などと呼ぶ家があつたことは、横浜ばなしに「何れも海道に竝びなき雅びなる高名の旅籠屋なり。奥の座敷は何れも見晴しよき絶景なり。」とあつて、料理店として独立したものでは無かつたが、名物の神奈川鯛などの風味の佳肴や、関西の灘、御影から此浜の問屋に入荷する樽揺れの芳ばしい美酒などは、旅人の足を止めるに充分なものであつた。更に台町に上れば、眼界が忽ち開け、一望千里の風光裡に、袖ヶ浦の岸打つ浪の音穏かに、彼方の野毛山沿ひに横浜港の新風景を展開し、その浦々から漁れる雑魚の小料理を肴に、舌鼓み打つ快味はまた無い馳走として、茶店の繁昌を見せて居た桜屋・田中屋・石崎屋、松本屋などが立竝び、異国渡りの遠眼鏡も据付けて、彼方に見ゆる異人屋敷の甍の光り、各国とりどりの旗の色や、港に浮く黒船の数々と、さうした景色の眺めが、神奈川料理の鮮魚の味良さと相俟つて、噂は可成り久しい間その俤を偲ぶことが出来たのであつた。されば明治初年、神奈川の地先(現在神奈川区栄町一・二・三丁目)が埋立てられた後も、海沿ひの景勝は長く保たれて、其風光を誇つて居たが、古来の営業者は多く廃業し、明治中期の頃に出来た対湾亭・対江亭などを尤として、台町には昔しながらの田中屋や、それに後年開業の丁字屋など、是等の割烹店は今猶、其面影を止めて居る。