横浜市に於ける料理店の元祖は、文久三年に開業した太田町三丁目(現今、中区太田町三丁目。)の佐野茂(後出。)だと言はれ、次いで明治初年に出来た伊勢文(現今、太田町五丁目付近と伝ふ。)の二軒であり、当時未が太田町以西(後年の太田屋新田。)の地は港崎遊廓を南に見て、一面は不毛の荒田であり、其後方は釣鐘形に往昔の俤を止めて、其中には堤塘や水溜りなどが飛びとびにあつた所であつた。而して目遥かの丘陵の上には富士が浮んで居て、また捨て難い一景観でもあつたので、此風趣を前景としての佐野茂の座敷の繁昌も思はれるのであつた。かくて明治に入り、関内関外の各発展が著しくなつて来て、飲食店・小料理店等の増加も極めて当然のことであつたが、就中関内には当時貴顕紳士が盛に出入したと云ふ富貴楼(後出。)が駒形町(現今、中区相生町五丁目付近。)に開店して、関外羽衣町(厳島神社付近、大岡川寄り。)の方には、三階造の相模屋が出来た。其当時は三階造の家が非常に珍らしかったので、三階相模屋の名は忽ちにして有名のものとなつたと云はれて居る。(明治二十年廃業。)次いで関内には常盤町三丁目に八百藤(明治三十年頃廃業。)が出来、真砂町二丁目に松本、(明治二十五年頃廃業。)住吉町六丁目に千登世(後出。)相生町三丁目に嘉以古(後の八百政。)が開業した。以上は何れも有名な料理店であつて、当代の横浜を飾つたものであつた。