富貴楼

幕未期の混沌たる世相を通過して、創造維新に入るべく、真剣に文化への建設完成に努力した明治政府は、海外事象の吸収や接触や内治外交に亙る各方面に対し、多々益々研究と進展とを策すべきものがあつた。斯うした事柄の相談や協議は、横浜の開港文化を眼前に置いて、現実性を観収する必要にも迫られて居た。此場合富貴楼は、政府顕官の休息所であり、足溜りであり、会議所の役目を受持つて居た。且つ是れに関連して、当時の政治家や政商等も盛に出入した所である。楼主於倉の美人であり、侠気である奇才縦横の彼女に接して、時事を談じ、於倉を仲介として解決の途を講じたものも少なくなかつたと云はれて居る。実に於倉は過去を数奇の運命に翻弄された果て、横浜に落着く様になつて、侠艶両全の彼女の手腕は、一躍其声名を揚げ、明治初期の政治史の裏面に活躍した。実に彼女は横浜が持つ名物であり、誇りであり、而して又あまりにも有名であつたのである。