富貴楼の沿革と於倉の伝

於倉は天保七年十二月、東京浅草松葉町に生れ、本名をたけ(渡井姓。)と云ひ、父丑之助は当代の仁侠新門辰五郎の知遇を受けた一かどの侠人であつた。於倉六歳の折、一家離散し、同業者其に養はれ、茶屋の女中を働いて居る内、鉄砲鍛冶鉄六(。、鉄五郎。)と結婚したが、貧困の未、夫婦別れをして新宿の豊倉屋(。豆倉とも云う。)から於倉と名乗つて稼ぎ女郎となり、後同所の菊地屋に住替へ、八丁堀の同心高橋某に落籍されて、根岸に囲はれて居た。是れより先、於倉は植木職亀次郎と恋に落ち、これが因縁で最後まで連れ添うたのであるが、根岸の寓を断つて、一旦亀次郎と世帯を持つたところ、生計に窮して、程なく品川宿の港屋から、又の稼ぎに出で、全盛を誇つて居る内、銀座の役人誉田某に落籍され、深川扇橋のほとりの寮に綺羅を飾つて居たのも束の間、遊蕩な亀次郎の為めに失敗し、今度は吉原から芸妓に出たが、心気一転し、便船を得て、二人は大阪に落着き、於倉は北の新地から芸妓となり、亀次郎も身を粉にして働いた結果、小金を貯へ、大に雄飛すべく横浜に乗込んだのは、於倉三十三歳の春、明治元年であつた。

横浜に来た於倉は、高砂町二丁目新道(。今、中区相生町三丁目。)の待合茶屋岡本(伊藤博文・井上馨・陸奥宗光などはよく遊びに来たと云う。明治六年大火後廃業。)を頼り、女主人の侠気に縋つて、高田屋と云工芸妓屋を駒形町新地(。今、相生町五丁目付近。)に開業し、忽ち抱へを置いて、稼業は繁昌となった。於倉贔屓の一人である機業界の大御所田中平八の出資で、駒形町(馬車道寄り相生町五丁目付近。)の料理店松心亭(しししししs。。)とを譲受け、大改造を施し、田中の命名で富貴楼と改めた。当時県令であつた陸奥宗光は、殊に彼女の侠気と奇才とを愛し、最も好き話相手とした。蓋し、これが将来の名声を博するの礎地を成したものである。爾来、顕官・大商人は此楼に遊ぶものが多くなり、従つてあらゆる策源地として利用されて居た。

明治四年十一月十二日出帆の亜米利加丸で、欧米視察の途に就いた全権大使岩倉具視、副使木戸孝允、大久保利通、随員伊藤博文・山口尚芳等と、見送りに来た大隈重信、山県有朋、井上馨等と、出帆の前夜宿泊したのも富貴楼であつた。其折の随員であつた福地源一郎(桜痴)が吉原町岩亀楼に登楼して、余は木戸参議なりなどと戯れて、廓内を騒がしたと云ふ挿話も、出帆前夜の出来事であつたと伝へて居る。明治六年三月二十二日の夜、相生町三丁目箱屋からの出火で、港町河岸まで焼けた大火に、富貴楼も類焼したので、尾上町五丁目七十八番地(現八十番地。)角地二百余坪の地に、貴顕紳士後援の下に善美な家屋を建築した。以後、於倉の侠名と共に、益々其声名高く、政治界や商業界の社交場として利用の価値を発揮し、且つ第一流の割烹店として存在して居たのであつたが、明治二十九年四月十三日、夫斉藤亀次郎死去の後廃業した。跡家は横浜郵船会社支店長林民雄の所有となり、後更に脇沢金次郎に移り、其一部の建築は真砂町二丁目紀の国(前項松本の跡へ女中頭おみき経営の割店、後年富貴楼と改名したが、大正初年廃業。)に移築する等、多少の改造を見たが、ありし当時の面影を残して、震災時まで存在して居た。而して於倉は廃業後、中区日ノ出町一丁目の隠宅に有髪の尼姿となつて居住し、後年東京高輪御殿山に移つて老を養つて居たが、明治四十三年夏、大磯招仙閣に避暑中発病し、伊藤博文公から贈られた寝台の上で、九月十一日死去した。墓地は夫亀次郎と共に、中区清水町東福寺に葬つてある。