開港以前に於ては、瀧頭・根岸(中区西根岸町)の海浜、即ち現在の不動下から八幡橋附近に亙つて、白瀧不動の参詣者を中心に、相当の賑ひを見せて居た頃、海湾の眺望を受けて、酒楼の幾戸があつた。白瀧不動は当時向ふ地と呼んだ対岸、房総地方の浜方や東海沿岸の舟夫逹を、信仰の威力に引きつけて居たのてあるが、其酒楼の二三家には、船夫逹への媚を売る飯盛式の女を置いてあつた。殊に暴風雨日の折の幾日かは、懷ろ銭の棄場でもあつたと、記録文厭に徴すべきものは無いが、古老はかく伝へて居る。想ふに、是等は非公式の飯盛女てあつて、所謂淫売帰に過ぎなかつたもので、開港後数年間は其影と存して、横浜に於ける私娼以前、の私娼の形体を為して居たのであつた。