かくて荼店の給仕女である淫売婦は、千客万来の遊客を拉し去つて、何処となく雲隠れ、所謂風俗を乱して居たのであつたが、吉田橋関門撤去(明治四年十一月。)後に引きつゞき、柳町の新開が竣成した後は、現在の港町五・六丁目河岸、竝に柳町河岸(中程に花見橋(明治五年十月架橋、十五年五月廃止)あり、其先に柳橋(明治五年八月架橋)がある。)の繁昌風景は、想像に過ぐるものであつたに相違ない。
麦湯出店の期間は、両岸の柳芽ぐみ水温む頃から、秋十月、肌寒むを覚ゆる頃迄が、其全盛を見せて居たので、冬期も猶若干の居残り店が、かん酒などを提供して、星氷る夜半を葭簀張の裡に痴語睦言が聞かれるのであつた。彼等の姿は、男達と共に辻から辻へと暗闇に消えて行くのであつた。
麦湯人鑑札下附に月税賦課
斯くて此両岸の麦湯店に商売冥利として明治七年に至り鑑札を下附し月税を徴する事とした。其店数は徴證すべきものがないので判明しないが、明治八年前後の全盛期れ推想して見ると、夏期には百軒以上に及び、麦湯の姉さんも可成りの数であった事を想はせるのである。其後関内側営業した者は、関外の開発に伴うて、遂に竝べ、繁栄招致の先鞭者となり、独特の一情景を浮かべて居たである。